ktszkのブログ

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きよしこと恥ずかしい記憶

少し前に重松清の「きよしこ」という小説を読んだ。

 
吃音持ちだった著者自身の経験に基づくお話で、幼少期からの様々なエピソードが各章で語られている。吃音自体については正直はじめて知ることばかりだったけれど、体験エピソードなんかは共感するシーンもチラホラ。
 
本当に欲しかったものを親に言えなかったこととか。
本当は言いたかったことを友達に言えなかったこととか。
 
思えば、僕自身もちょっとした記憶って小さい頃ほど鮮明に覚えている。
 
ナーサリーでトイレに行きたいって言えなくてお漏らしを繰り返したこととか。兄にくっついて友達の家に遊びに行ったとき、兄たちが外で遊んでいる間にこっそり家に戻って、友達の親にゲームをやらせてくれって勇気を振り絞って聞いたこととか。日英ちゃんぽんなとんでも言語のやり取りでもなんとなく友達と遊べていたこととか。
 
三つ子の魂百までとはよく言うけれど、こういった経験は原体験として根深く残っていると思う。思えばこの頃から苦手だったことは、今でも多少苦手な部分がある。例えば、コミュニケーションに気を遣いたくなるのは、幼少期の日英ちゃんぽんコミュニケーション体験が影響しているんじゃないかというのが最近の仮説(自分の伝えたいことがちゃんと相手に伝わっているかもやもやしてた)。20年も前の話を引きずってんじゃねーよと思うが、遡ってみたらそれくらい前になることってひょっとして結構あるんじゃないか。
 
きよしこでは、主人公が大きくなるにつれて吃音を受け入れ乗り越えていく姿が描かれている。ひょっとしたら著者自身もこの小説を書きながら自己を受け入れていったのかも。自分の物事の判断基準とか、何かを決断する際の癖なんかを振り返るには幼少期の記憶はいい材料だと思う。何よりも、そうすることで自己を受け入れるプロセスと向き合えるから、自分いじめが得意な人には恥ずかしい記憶とにらめっこして「あほやったなぁ」と笑ってやれるといいね。自己嫌悪は自己愛の裏返し。
 
ちょうど恩師があるインタビューで「己の弱さを抱きしめられることが強さ」と言っていた。今なら初訪の営業先でだって図々しくもトイレを借りられる。「Toilette」と言えなかった自分に見せてやりたい。ちゃんとトイレ行きたいって言えてるぞと。